第24回「全国ボランティアフェスティバル”ふくしま”」に参加して
本年11月21・22日(土・日)福島県郡山市:ビックパレット福島において全国ボランティアフェスティバル”ふくしま”が開催されました。このフェスティバルは、全国の社会福祉協議会が各都道府県持ち回りで開催されているもので、本年は福島県で開催されました。以下、参加されました大北容子防災士から報告がありましたので掲載します。
本年11月21・22日(土・日)福島県郡山市:ビックパレット福島において全国ボランティアフェスティバル”ふくしま”が開催されました。このフェスティバルは、全国の社会福祉協議会が各都道府県持ち回りで開催されているもので、本年は福島県で開催されました。以下、参加されました大北容子防災士から報告がありましたので掲載します。
平成27年9月23日(水)日本防災士会が実施した「常総市被災地支援ボランティア」第一次派遣に参加しました。私は、たまたま20日・21日と東京に滞在する予定になっていたため、この機会に、参加することとしました。当日、朝5時20分頃、東京駅を出発し、常磐線取手駅で関東鉄道に乗り換えましたが、関東鉄道は水海道以北は、不通の状態で運転されておらず、二つ先の駅近郊の集合地に行くため、タクシーを使うしかなかった状況でした。第一次派遣に参加した防災士は、総勢57名で、本部・茨城県・東京都・千葉県・埼玉県の防災士が主体でした。ボランティアセンターでのマッティングの後、グループ分けし、15名ぐらいのグループが、地域の被災家屋の後片づけの作業をしました。私のグループは、常総市沖新田町の古い建物と新築家屋及び作業所で、家具の水洗い・乾燥・消毒や床板の撤去・床下の泥の撤去・水洗い、障子・網戸・雨戸・ふすまの水洗い・乾燥などの作業を行いました。この辺りは、小さな八間堀川が鬼怒川の影響で水があふれ、住宅の床上まで浸水、この家の家族は二階に避難し、ベランダからヘリコプターに救助されたそうです。水道は復旧せず、飲料水はペットボトルに頼っていましたが、井戸水があったので、作業は容易でした。ただこの家の家族にとっては、毎日の泥との戦いであり、大変なご苦労と思います。水害前に収穫された田んぼに、コンバインで切断されたわら屑があったため、泥と共に切わらがそこらへんに流されて来ていました。未収穫の付近の田んぼの稲は倒れていて、大変な損害と思われます。ゴミ・粗大ごみの収集が追い付かず、まだ道路に山積みの状態のところが多く目につきました。常総市役所周辺も、消毒薬のにおいが残っている状態で、回復までまだ時間がかかる状況です。作業終了後、ボランティアセンターが用意したバスで、つくばエクスプレスの最寄駅まで送迎してもらいましたが、高校生や大学生が多数乗車していて、頼もしい限りでした。(板垣防災士)
このたびの台風 18 号により被害を受けられた皆様に謹んでお見舞い申し上げます。
奈良県防災士会では、紀伊半島大水害における経験をいかし、防災士会本部、栃木県支部、茨城県支部、宮城県支部などと連携をはかりながら、災害ボランティア派遣や寄付などの呼びかけを行いたいと考えています。
現時点では、会員や防災士会本部、他県支部などから情報収集を行っております。
奈良県防災士会としての動きが決まり次第、ウェブサイトにてご報告いたします。
日本防災士会奈良県支部 岩野祥子
2011年3月11日に発生した東日本大震災以降、宮城県東松島市に足を運び、被災からの復興の様子を見続けています。去る9月26-28日に訪れたときの様子を報告します。
私見ですが、東松島市はわりと順調に復興が進んでいると感じます。311から1年間は月に1回から数回、それ以降はひと月から3か月に1度程度、東松島市を訪れていますが、行くたびに変化を感じられます。一方、福島原発の周辺地域へは、年に1~2回程度しか行かないにも関わらず、「前回から何も変わっていない」と感じることがあり、その違いを実感します。
今回、市内の数か所で目に留まったのが、集団移転地での建築工事が始まっていたことです。上の写真は、宮戸の大浜地区。6月に宅地造成が終了し、現在は住居の建築工事に移っています。
同じく、市中心部に近い、牛網地区の集団移転地です。
東松島へ行くたびに訪れるのが、「東松島市生活復興支援センター」です。ここは、震災発生から約5カ月の間は、「東松島市災害ボランティアセンター」として、泥出しや災害ゴミの撤去など、被災者と支援者のマッチングを行っていました。片付けがひと段落して以降は、仮設住宅で暮らす人たちのサポートや、失った仕事や家を今後どうしていくかなど、生活を立て直すために必要な、幅広い支援をするための「生活復興支援センター」へと活動の幅を広げました。
東松島市では、「生活復興支援センターは仮設避難者を見る」「東松島復興協議会(東松島市で活動する全国のボランティア団体やNPO・NGOが連携して活動を行うためのネットワーク)は在宅避難者を見る」というすみわけの元、復興に取り組んできました。わたしたちは在宅避難者から直接ニーズを聞きとりながら活動してきたため、仮設の人たちの様子や、行政の動きはほとんどわかりませんでした。そこで、東松島に来るたびに、生活復興支援センターを訪ねて、仮設避難者(現在は災害公営住宅への入居者も含む)の様子や、行政の取り組みについて、話を聞かせてもらっています。
話を聞く中で、震災から2年目となる去年あたりから、生活復興支援センターの役割のひとつに、災害を経験していない自治体への経験の共有と、災害への備えについての啓蒙活動が加わったように思います。今回訪れたときには、子ども向けのHUG(避難所運営ゲーム)の資料などを見せていただくことができました。
「被災者自身も、数年たてば経験を忘れてしまう。今後は、災害を経験していない子どもも増えていく。被災地域の中で、今回の教訓を生かせなければ意味がない」ということで、地域の人に対し、また、災害を経験していないよその地域の人に対し、東松島市が経験したことを伝えていく活動を、今後はさらに積極的に行っていくようです。
災害復興支援として気仙沼で支援活動を続ける伊藤東洋雄防災士(奈良県支部:王寺町)から便りが届きました。
以下、全文を掲載します。
日本防災士会奈良県支部 伊藤東洋雄
東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた宮城県気仙沼市の復興支援のため当地に来てはや1年が経過しました。本稿では、気仙沼市におけるまちづくりの考え方について報告します。
震災直後のがれき散乱の状況
かさ上げされたマンホール
1 地震・津波発生(平成23年3月11日14時46分頃)
2 被災者(家屋倒壊など)は学校の体育館などの避難所(105カ所)へ避難
3 仮設住宅を建設し、避難所から仮設住宅へ移転(仮設住宅は学校職場などに建設)
4 恒久住宅を建設し、仮設住宅から移転(主として次の3つのパターンがある)
−1 安全な場所に自宅を購入し各自で移転
−2 災害公営住宅に移転(自力での住宅再建が困難な市民のた
めの公営住宅)
−3 防災集団移転事業(津波被害の恐れがない地区への集団移転)で造成された宅地を購入し各自が建築後移転
《総合的な津波防災対策》
■明治三陸・昭和三陸地震津波などの数十年から百数十年に一度発生する津波(L1津波)に対しては、海岸堤防により、確実に津波から街を防御する。
■1000年に一度といわれる今回のような津波(L2津波)が起こった場合浸水が想定
される地域には、居住しない。
《災害危険区域の指定》
L1対応の防潮堤整備等を実施しても、東日本大震災と同様の津波で浸水被害が発生する可能性が高い区域を基本として指定している。
災害危険区域に指定(平成23年7月)された地区は居住の用には使えなく、水産加工施設など商業・工業などの非居住区域となる。
1 災害公営住宅 19地区、1,998戸のうち完了0戸
2 防災集団移転地38地区・970区画のうち、今年3月に初めて6区画が完成した。
3 防潮堤 87カ所のうち完了0カ所
4 震災廃棄物(瓦礫)処理 完了
5 これまで経験したことがない大規模災害に直面して、復興への強いリーダーシップが求められる。
6 復興計画に対する住民の合意がまとまりにくい。(防潮堤の高さの決定など)
7 復興事業に時間がかかる。
・防災集団移転事業などの実施に際し、相続手続きや抵当権解除など地権者の同意が必要。
・埋蔵文化財調査や開発行為の手続きなど法律に縛られる。
8 広範囲にかつ時期を同じくして復興に取り組むため、行政の職員、建設会社、建設資材が
逼迫し、事業がはかどらない。
9 復興事業に時間がかかるため、それぞれの事情を抱えた住民には待ちきれなく、他の自治体に転居し、人口が減少し復興計画の見直しが必要になる場合がある。
3.5mかさ上げされる
建物は流され基礎のみが残っている
かさ上げされたマンホールと下水の仮設配管
来る2月1日、伊藤東洋雄防災士:支部監査(王寺町)が災害復興支援の臨時職員として宮城県へ赴任されることになりました。任期は2年で、赴任先は宮城県気仙沼市です。
現地では、主に土木技術者として復興支援にあたられます。
ご高齢(72才)にも関わらず、被災地での復興支援に向かわれる伊藤防災士の心意気に敬意を表すとともに、万全の体調管理と、無事、責務を果たされんことを心から願いつつ、支部の皆様にご紹介します。
以下、伊藤防災士からのメッセージを全文掲載します。
「宮城県へ復興支援に行くにあたって!」
この度、東日本大震災で壊滅的打撃を受けたインフラ復興のため宮城県に赴任することになりました。
日本防災士会奈良県支部では、皆様と一緒に色々な活動や勉強をさせて頂き、ありがとうございました。厚くお礼申しあげます。
宮城県では、やらなければならない復興事業が多いのに、それに携わる技術者が足りなくて困っているという現状を知り、土木技術者の一人として何かお役に立ちたい、との思いから職員募集に応募しました。宮城県から気仙沼市に派遣が決まり、主に下水道事業の復興(計画・設計・施工管理)に携わることになります。
生れてから関西より北では生活した経験がなく、土地勘もなく、気候風土もわからない上、2年間という長期間を全うできるか不安もありますが、被災者の皆様と一体となって、できるだけ早く正常な生活を取り戻せるよう微力を尽くしたいと考えています。
今後とも、ご指導・ご鞭撻よろしくお願いします。
防災士 伊藤東洋雄(王寺町)
さる6月29日、野迫川村中学校横の空き地で「天体観測会」が行われました。 この天体観測会は、長引く仮設住宅暮らしに少しでも役立てばと北股地区住民の皆さんを対象に、三郷町在住の西川防災士(支部役員)が企画し実現したものです。 この天体観測会には、北股仮設住宅に暮らす皆さんを始め多くの住民の方が訪れ、月のクレーターや土星の輪などの天体ショーを楽しみました。
天体観測の準備をする西川防災士
望遠鏡をのぞく野迫川の子供たち
望遠鏡をのぞこうと順番待ちをする子供たち 曇り空の夜7時から始まった天体観測は、しばらくすると雲も薄れ、月のクレーターや土星の輪がはっきりと見え、中でも”こと座の1等星ベガ”のダイヤモンドのように輝く姿に参加者はうっとり・・ また、非常に珍しいとされる人工衛星が3回も肉眼で確認できるなど野迫川の夜を堪能しました。 この天体観測に訪れた高齢者は、「長生きはするもんやの~、こんなん見せてもろて・・・」 と、感動された様子で、しばし仮設住宅での不自由な生活を忘れられた様子。 親子ずれ、家族ずれの方の姿も多くみられ、楽しい一夜のひと時となりました。 (取材:植村信吉)
さる5月20日、防災士会奈良県支部磯城郡ブロック主催で野迫川村応援「温泉ツアー」を行いました。このツアーには、磯城郡在住の防災士の他、県内の防災士、主旨に賛同した方々17名が参加し野迫川村へ向かいました。
野迫川村では、まず仮設住宅を訪問し、地元の中本区長さんから仮設住宅の現状や皆さんの様子などを聞かせて頂きました。
この後、被災地(北股地区)へ向かいました。
偶然、農作業をされていた地元の方から、当時の様子や今の暮らしぶりなどを聞くことができました。
ただ、この北股地区は、今も避難指示が発令されたままで、住民の方は朝から夕方までは地区へ入れますが、夜は立ち入り禁止制限があるそうです。
この後、ホテル野迫川で昼食・入浴を済ませて、ホテルの支配人から少しお話を聞かせて頂きました。
支配人からは、「風評被害で観光客が激減しています。今日来ていただいた皆さんから、野迫川村は大丈夫!ぜひ野迫川へいきましょう・・」と、話して頂ければ嬉しいですとの言葉がありました。
ホテルでは、訪問記念として参加者がそれぞれの思いを寄せ書きに書き込み支配人に手渡しました。
支配人からは、「一番目立つ所に貼ります!」と大変喜んで頂きました。
この後、被災地の北股地区を一望できる場所があると聞いて、龍神スカイライン方面へハードな林道を上って土砂くずれの様子を視察しました。
右下の方が北股地区になります。
こうして見ると、いかに土砂くずれの規模が大きかったのかが良くわかります。
今回は、通常考えられるボランティアと違いますが、比較的高齢な方でも、家族でも気楽に復興・復旧支援行動ができるということを実感した一日となりました。
さる10月13日(木)、宮城県女川からサンマ、宮城県石巻市十三ケ浜からワカメが届きました。
このサンマとワカメは、奈良県支部が台風12号による土砂ダムに伴い、今もなお避難所生活を余儀なくされている野迫川村北股地区での炊き出し支援行動において、被災地をつなぐ営みとして東日本大震災の被災地でがんばる方々の”思い”と”元気”を届けるべく企画したものです。
奈良県支部では、9月末に木本支部長と木村副支部長が義援金を持って宮城・岩手両県を訪問した経過もあり、宮城県支部へ今回の支援行動の趣旨を説明の上、協力を依頼したところ、宮城県支部の快諾を得て実現しました。その際、宮城県支部からは、宮城県女川では、壊滅的な被害を受けながらも被災した方々が懸命に立ち上がって頑張ってる!ことなどを聞き、当日の炊き出し支援行動では現地避難所の方々へ報告しました。
少しは、宮城の現状と頑張る”元気”を届けられたと思っております。
なお、今回、サンマとワカメを送っていただく際、お世話をいただいた宮城県支部の仲間から現状の報告や経過の説明が届いてますので、そのメールを一部抜粋して紹介します。
<宮城県支部からの報告>
・・・・・女川に「マリンパル女川」という町のシンボル的存在の観光施設がありました。・・・・県の報告では、再建は8年後になるとのこと。それでは、その間どうすればいいんだ、働く人も、買いに来てくれる人もいなくなってしまうと、立ち上がったのが、マリンパル女川にお店を出していた海産物店「山昭(やましょうさん)」です。・・・・1ケ月前、運よく土地が見つかったので、一気にマリンパルの仮店舗の計画を進め、10月8日に「マリンパル女川仮店舗、おさかな市場」をオープン!
亡くなった方も多いので、お店の数は前の半分になりましたが、オープン3日間は、女川への道が渋滞するほどの大盛況。
当初、無謀だといわれた計画、設備も整ってませんが、
やればできる!
今、なんだ!
の一念で頑張ったそうです。・・・・・
(宮城県支部黒田防災士のメールから一部抜粋)
下の写真は、仮設のマリンパル女川おさかな市場です
最後に、先月の訪問時や今回の炊き出し支援行動に際して、前面協力を頂いた宮城県支部の皆さんへ厚くお礼申し上げます。
避難所では、サンマやワカメの経過を説明し、美味しく食べていただきました。
ご協力ありがとうございました。
これまで奈良県支部では、被災地でがんばる東北3県支部へ活動資金を!と、呼びかけて取り組んできました。
今回、宮城県支部・岩手県支部が活動を再開していると聞き、激励行動の一環として9月22日(木)~24日(土)にかけて両県支部を訪問し、義援金を届けました。なお、福島県については、支部が未結成であることや原発被害で各防災士がバラバラに避難していると聞いていることから今回は見送りとしました。
当日は、仙台空港で宮城県支部役員の方々の熱烈な歓迎を受け、その後空港の被災箇所、名取、仙台市内の被災地区の視察を行いました。続いて、市内で宮城県支部が贈呈式を準備して下さっていたこともあり、木本支部長ともども出席いたしました。先ず、高坂宮城県支部長より挨拶あり、「遠路はるばる東北にお越しいただいた・・・」等、感謝の弁で開会し、和やかな雰囲気の中で義援金を贈呈しました。また、今後も各支部協力し合ってこのネットワークを活用し、各支部の発展と防災士としての使命を果たすことを確認しました。
翌日、石巻、南三陸町の被災地経由で岩手県宮古市を目指しましたが、途中通行止めなどで何回も行く手を阻まれることになりました。これは震災で陥没したところへ、先日からの台風で降った雨で道路や崖崩れの為に通行できず、結果、約2時間遅れの到着となり、岩手県支部の皆さんにはご心配をかけることになりましたが、無事に宮古に着くことができました。
到着後、山崎岩手県支部副支部長から田老町にある世界一と称された防波堤の崩壊現場で当時の様子、津波の威力、被害状況の説明を受け、あらためて被害の大きさや深刻さを知ることになりました。また同時に、役場の防災担当職員として日夜努力されていることを聞くにつけ頭が下がる思いでいっぱいになりました。
最終日は盛岡経由で帰途となりましたが、この3日間で感じたことは仙台市周辺のクローズアップされない地域が多く、この震災は想像を絶する被害であったことを再認識させられた事。福島原発事故の早期終息と地域によっては復興が手付かずの状態で放置されている地域もある事です。
国を挙げての1日でも早い復興を願うとともに、防災士としてなにができるのかが問われた訪問となりました。