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能登半島地震被災地支援報告(9月13日から15日)

2024年9月13日、能登半島地震第7次被災地支援活動の防災士8名のメンバーが近鉄西大寺駅南側ロータリーに集まり21:50頃出発しました。今回がNPO法人奈良県防災士会としての能登支援活動は最終となります。参加メンバーの自家用車5台に分乗して石川県珠洲市を目指しました。

14日(土)5:20頃に順次道の駅すずなりに到着。そこで朝5:00から営業していた「すずキッチン」で昼用のお弁当を購入して各自車内で仮眠。7:45頃、珠洲市ボランティアセンター(以下VC)へ向けて移動し到着後、スマートフォンでの受け付け登録を行い、活動先の説明と他からのボランティアの方とマッチング、オリエンテーションを受けました。午前は奈良県防災士会メンバーは4名ずつ北村班と大坂間班に二手に分かれ、それぞれの依頼先へ向かいました。北村班メンバーは川口、湯浅、福本の各防災士とひのきしんの方2名と行動を共に飯田へ向かいました。飯田地区1件目は「仏壇、畳の運び出し」の依頼で、家人の立会いのもと引き戸や小型冷蔵庫、照明器具や小物も廃棄を要望され回収して運び出しました。津波で被害を受け母屋は地盤が隆起し、リフォームしてまだ7年ほどでローンも残っているとおっしゃってましたが取り壊しを決めたとの事。依頼の完了をご確認いただきひとまずVCへもどり報告。

時刻が10:00とまだ早いため飯田地区での2件目を受諾。以前、小料理屋だったお宅の取り壊し前の片づけ作業で前回作業のボランティアが廃棄し忘れたものが残っているということでシンクや裏庭の植木鉢などを回収しました。植木鉢は土嚢袋に入れ叩き割って回収。母屋の中はまだ手つかずで、VCでの報告では今回で依頼は完了、ただ今後も要対応と報告した。VCの受け付けの方から「今後についてこちらからよく調べておきます」と対応いただきました。

一方、宝立地区へ向かった大坂間班、村山、吉川、矢作各防災士は加賀の防災士2名との行動でした。納屋の中に大量の物があり、祭の準備のために運び出してほしいという依頼で、立ち会い人不在の為、自己判断しなければならない案件でした。実際にはひどい有様でトラクターの関連部品、細かい廃棄物や蜂の巣やネズミがいたりと大変だったとのことで、全員ここでの作業でかなり疲弊した様子でした。

昼食のお弁当をVCのテント下でいただいたのち、午後からの案件へ出発。

宝立地区の現場に13時過ぎに到着。今回2回目で納屋の分別したゴミを運び出す作業で依頼主の高齢の女性から説明を受けました。15年前に先立たれた左官業のご主人が、納屋に貯め込んだらしい色々なものをまとめて廃棄したいとのことでとにかく軽トラに載せ集積場へ。家庭ごみに判断されるかと思ったら可燃ごみは家具類の災害ごみとして全て回収されたとのこと。他には木切れ、木材が大量にあり2台目のトラックへ載せ集積場へ運びました。母屋内はまだ手つかずでしたが集積場の受け入れ時刻に間に合わないため、依頼主さんとお話をして今後してもらいたいことを聞き出し、その内容を要継続としてVCに報告しました。1日目はとにかく暑く汗を多くかいた1日でした。

報告完了後、防災士会に翌日お願いしたい依頼があるということで内容を確認したところ、折戸地区の納屋の片付け作業で8人で向かうこととなりメンバーにも共有したのちVCを出発。その日の宿泊を予約している能登町の「少年自然の家」へ向かいました。奈良県防災士会が何度もお世話になっている野外活動施設で復興支援の業者の方も宿泊されていました。

翌日の9月15日、未明から雨が降っていました。7時半ごろに珠洲市VCに着いたころは少し晴れ間があり涼しい感じでした。オリエンテーションも割愛され奈良県防災士会8名全員で目的地の折戸の「木ノ浦海域公園」へ向かいました。依頼内容は「納屋の使わなくなった漁の網をハサミで切って鉛の重りを回収し分別して欲しい」というものでした。海沿いの綺麗な湾に面した場所で震災前にはカフェもあったようですが被災し取り壊されていました。朽ちた納屋の中に漁具があり、これまでのボランティアの継続活動として各自でハサミを持って景色を眺めつつひたすら網から重りをハサミで切り取る作業を行ないました。空は次第に曇天となり、村山防災士から思わず「鉛色の空の下で鉛を切り取る作業とは」というセリフが出ました。雨雲情報がやばいと何人かが言い出しカミナリが鳴り始め瞬く間に土砂降りの大雨となりスマートフォンからは土砂災害警報も出始めたため作業を中断して雨宿り。この日は夕方まで雨予報となっており雨脚が小康状態になったところでVCに確認の連絡を取り撤収としました。VCで作業の報告をし終わったのが11時半でこの時点で奈良県防災士会としての能登半島地震被災地支援活動の終了としました。

なお気になる珠洲市VCの運営については10月からは土日など週末に限定した開設へと移行するとの事。平日のボランティアがほとんど来なくなったからだそうです。奈良への帰投の前に道の駅すずなりに隣接された「すず食堂」へ立ち寄って皆で昼食を取りました。珠洲市内の被災した4つの飲食店さんが合同で開業された食堂とのことで、ボランティアや地元の方々で列が出来るほど賑わっていました。復興にちなんで「福幸丼」と名付けられた福を呼ぶ海鮮丼をいただきましたがとても美味しかったです!道の駅すずなりも多くの人が訪れ、珠洲は元気で復興は時間は掛かっても着実に進んでいるんだなと感じさせられました。メンバーは22時過ぎに近鉄大和西大寺駅前へ到着、解散となりました。

参加防災士

大坂間弘明(上牧町)

村山央(広陵町)

川口均(生駒市)

矢作一(奈良市)

福本学(奈良市)

吉川和伸(生駒市)

湯浅茂雄(大和高田市)

北村厚司(三郷町)

以上8名、皆様たいへんお疲れさまでした。

報告:北村防災士

能登半島地震災害ボランティア活動(3月15日~17日)

3月15日金曜日21:00に、植村相談役運転のマイクロバスで奈良を出発し、16日土曜日8:00に珠洲市内正院小学校を経由して能登町災害VCに到着。受付を行い、初日は白丸地区にて津波によって破壊されたブロック塀(コンクリート屑)を災害ゴミ集積場まで運搬する活動。軽トラック3台とハンマーなどの機材を借り受け活動に従事した。この日のリーダーは杉村防災士。午前、午後と同じメンバーで撤去作業を行ったが、15:00までの災害ゴミ集積場受付時刻を超過したため、翌日へ持ち越しとなった。3月16日日曜日、8:30に受付を行い、白丸地区へ移動。軽トラック3台で運搬を行い、午前中の早い時間に当案件は完了。この日のリーダーは八幡領防災士。 引き続き姫地区へ移動して活動。案件内容は白丸地区案件と同じ内容であった。午前の活動を終え、一旦VCへ戻る。 VCに戻ると新たな案件の依頼を受ける。2班に分かれての活動となった。午後から、姫地区の案件は中嶋防災士をリーダーに6名で運搬作業を行い完了。その後、松並地区の案件に合流した。 残るメンバー6名は松並地区での家具の運び出し運搬に従事。神戸からのYMCA5名との合同での作業であった。リーダーは八幡領防災士が務める。 15時までの災害ゴミ受付時間までに松並地区の案件が完了。VCへ戻り、2日間の災害ボランティアを終了した。15:30に能登町を出発し、同日23:45に奈良へ帰着した。(報告:八幡領防災士)

能登半島地震:珠洲市内での復興支援活動「第3陣」(2月16日~19日)

第3陣として、2月16日の9:00に奈良県を出発し、珠洲市へ向かいました。メンバーは、杉村・板垣の70歳越えの2名です。17:00に珠洲市の小学校避難所に到着しました。17日8:30に珠洲市ボランティアセンターに到着、9:00から蛸島の民家で、瓦の落下物の撤去・倒壊ブロック塀のブロックの撤去・被災家具の撤去を行い、軽トラで災害ゴミの仮置き場に搬送し、作業を完了しました。午後は、2件目で山の麓の宝立町の2階建て民家が現場でした。2階が天井からの雨漏りで、畳みが濡れてしまい使用に耐えないので、撤去してほしいとのことで、階段を使い搬送し、使用に耐えない大型家具も撤去しました。アルミサッシも多数撤去し、仮置き場に搬送しました。石川県のボランティアバスのメンバーとの共同作業でした。2月18日は、8:30に珠洲市ボランティアセンターに到着、9:00から見立島近くの民家(津波被害を受けた住宅)の1階部分の砂出し作業を行った。隣接する作業小屋の泥だしも行い、昼食をはさみ14:00まで作業を続けた。一部残った作業は、明日、作業に入ることとした。避難所帰着後、仮設住宅を見学させてもらった。2月19日、7:30避難所を出発し、16:30に奈良県に帰着しました。  (報告:板垣防災士)

 

能登半島地震への支援活動にむけて

           能登半島地震への⽀援活動に向けて
                      ⽇本防災⼠会理事⻑ 室﨑 益輝

 新年早々、能登半島で⼤規模な地震が連続的に発⽣し、極めて深刻な被害がもたらされています。短期間に⼤規模な地震が何度も繰り返される中で、家屋倒壊、津波襲来、⼭地崩壊、市街⼤⽕などの複合と相乗により、被災地と被災者は絶望的な状態に追い詰められています。ライフラインが壊滅して、孤⽴した集落が数多く発⽣し、⽀援の届かない被災者もおびただしい数発⽣しています。
 こうした状況にあって、「助けられる⼈から助ける⼈へ」を活動理念とする⽇本防災⼠会は、被災者と被災地に寄り添って、会員相互のネットワーク⼒を最⼤限発揮し、被災地の被害の拡⼤防⽌と希望の回復のために⼒を尽くさなければなりません。防災⼠と防災⼠会の真価が問われているのです。防災⼠会としての『リーダーシップ』と『パートナーシップ』を発揮して、減災と復興に貢献したいと思います。
 無理をせず出来ることをできる形で、⼩さな⼒でも熱いこころざしをもって、みんなの⼒を合わせることにより、防災⼠会としての⼤きな⽀援⼒が⽣み出されます。みんなでみんなを助ける⼤運動を展開したいと思います。ひとりでも多くの皆さんの⼒をいただき、ひとりでも多くの被災者に⼒をあたえることが、防災⼠会に求められています。
 地域密着型を標榜する⽇本防災⼠会は、被災地の防災⼠や⽀部の⽀援活動を基軸にしつつ、その背中を物⼼両⾯で応援してゆくことにします。被災地と被災地⽀部に、しっかりとした⽇本防災⼠会のコーディネーションのもとに、必要とされるヒト・モノ・カネ・スキルを、後⽅⽀援の形で届けたいと思います。すべての⽀部とすべての防災⼠がつながって、⽀援活動を展開したいと思います。
 独りよがりにならずチームプレーに徹する、公的機関や⺠間団体との相互信頼の関係を⼤切にする、他の防災⼠や防災リーダーと⼿をつなぐ。⽇本防災⼠会としての⽀援活動の新しい地平を拓くために、全会員の総⼒を結集して下さい。

地震時のマイ・タイムライン

令和5年8月26日(土)河合町立高塚台集会所において、高塚台自主防災会主催の防災講演会が行われました。奈良県安全・安心まちづくりアドバイザーとして奈良県防災士会から村山防災士と小山防災士の2名が派遣され、約30名の参加者に「南海トラフ地震発生を想定したマイ・タイムラインの作成」に取り組んでいただきました。緊急地震速報発令から時系列で発災後48時間までの行動を用紙に記入してもらい、その後、東日本大震災の映像を観てもらい、解説を交えて振り返りを行いました。

奈良県は津波の心配がないため、南海トラフ地震を脅威と考えている人は少なかったです。振り返りでは、家屋倒壊や家具転倒などによる危険性を認識していただき、海無し県の奈良県であっても南海トラフ地震への備えが必要であることを強調しました。    <報告:小山防災士>

 

岩手県大槌町を訪問して

岩手県大槌町を訪問して
昨年11月上旬、仕事の関係で岩手県大槌町を訪れる機会がありました(当日は残念ながら雨模様でした)。本務は「小中一貫教育全国サミットin大槌」への参加です。出張先は大槌町でしたが、大船渡市に宿舎があった関係で大船渡~大槌の往復と、大槌町で見聞きした東日本大震災からの復興状況に関する内容について報告します。
この区間はご存じのとおりリアス式海岸の地形であり、大小多くの湾や入り江では沖から押し寄せる津波の波高がせり上がって被害が大きくなる傾向があります。車から見える景色でも比較的標高が低い場所の多くは更地であるか新しい建造物であるため、現在でも津波の被害があったエリアは一目瞭然でした。

写真は大船渡市浦浜地区の「ど根性ポプラ」です。説明板には『この広場になった土地は、平成23年3月11日の東日本大地震津波以前は、旅館、商店、資材倉庫等があった場所でした。中心に立つポプラの木は、商店の敷地内に、昭和8年の三陸大津波以降に植えられたもので、現在樹齢約80年です。未曽有の東日本大震災津波で木の高さ(約25m)の半分が海水に浸かり、十数回に及ぶ甚大な破壊力の押し波、引き波に耐え、周囲が悲惨なまでに変わりはてた中で、悠然と立っている一本のポプラの姿は、茫然自失となっていた住民の心を慰め、奮い立つ勇気を与えてくれました。誰からともなく「ど根性ポプラ」と呼ばれるようになりました。地域では、このポプラの木を中心とした憩いと人の交流広場建設構想で話がまとまり、市はこの提言を受け、地域が管理する多目的広場「ど根性ポプラ広場」として整備しました。(以下略)』との説明がありました。
たった1本のポプラにどれだけ多くの人が励まされたことかと思うと胸がつまります。ポプラの背後に見える防潮堤(高さT.P.+11.5m)は平成29年9月に完成したものです。 ※T.P.(東京湾中等潮位):東京湾の平均海面を基準とした水位の高さ

この写真は大船渡市三陸町吉浜の「津波石」です。吉浜は過去の津波被害の経験から高台移転が進み、他地域とは比べようがないほど少ない被害であったため「奇跡の集落」として、世界中に報道された村です。古くから高級食材「吉浜(きっぴん)アワビ」の産地で知られていますが、アワビは岩に張り付いているため津波の影響は少なく、地震が起こった年の11月からの漁期にも収穫されたそうです。ただ、収穫のための漁船が津波で減少し、その年の例年に比べ収穫量は大幅に減ったようですが…。
「津波石」は、昭和8年の昭和三陸大津波で大船渡市三陸町吉浜に流れ着いた巨石。岩石の表面には昭和三陸津波の際に刻まれた『津波記念石』の文字と展示に当たっての概要が記されており、その内容は、大きさ縦3.7メートル、横3.1メートル、高さ2.1メートル、重さは約30トンの大きな岩石。昭和和三陸大津波の際にはこの巨石が前方にある吉浜川河口付近から200mも運ばれたとのこと。漁港の整備に伴い一度は埋められてしまいましたが、平成23年に起きた東日本大震災による津波で被災した市道の法面から再び地上に姿を現したものを海岸に展示しているものです。過去、幾たびも津波被害を受けている三陸地域ならではの展示物でした。再発見に関わられた方の手記がHPで見ることができます。
〔参考〕思い出の「津波石」―二度も繰り返した偶然―
http://tsunami-ishi.jp/ofunato-yoshihama/report04.html

ここからは目的地の大槌町についてです。

大槌湾に浮かぶ「蓬莱島」はひょっこりひょうたん島のモデルとも言われており、震災後もそのかわいらしい姿を海面にのぞかせていました。

初めに訪れた大槌町立吉里吉里中学校は大槌町役場がある地域から北東方向に約4km離れた、船越湾に面する地域です。見学した授業は、地域の主な産業の一つである三陸ワカメの中で吉里吉里ワカメがどのような役割を果たしているかについての学習でした。地域のワカメ養殖に携わる方を講師に招き熱心に学んでいる姿が印象的でした。
発災当日の中学校には校舎敷地の一つ下にある運動場まで津波が来たそうですが、不幸中の幸いで校舎は被害を免れました。訪問時には校舎の横の土地に数多くの仮設住宅が並んでいました(写真の左右の建物の間に見える平屋の建物)が、復興が進む中、この仮説住宅は現在入居者が0になり、近いうちに撤収されるとのこと。中学校で学ぶ子どもたちの心の負担はほんの少し軽くなるかもしれません。近くの船越湾では巨大な防潮堤(堤防高T.P.12.8m 堤防護岸延長1200m)の建設が急ピッチで進められていました。

大槌町の市街地に当たる上町、本町、新町、安渡などの地区は津波により大きな被害がありました。写真はこの地域で建設中の防潮堤で堤防高T.P. 14.5m。堤防護岸延長は吉里吉里地区より長い2631mの計画です。
学校関係では、大槌小学校、安渡小学校、赤浜小学校、大槌北小学校、大槌中学校が津波により全てが使用できない状態となり、学校再開に向けて上記5校が入居する仮設校舎が、「大槌ふれあい運動公園」サッカー場に建設され、発災の約半年後、9月20日に小学校4校が、9月22日に大槌中学校が同一敷地内で開校したそうです。その後、平成25年4月には安渡、赤浜、大槌北の各小学校と合併して新しい大槌小学校が設立され、旧・大槌小学校は閉校扱いとなりました。平成28年4月には義務教育学校の大槌町立大槌学園(施設一体型小中一貫校)となり、平成29年1月には現在の新校舎が完成して今に至っています。なお、火災にあった旧大槌小学校の鉄筋4階建て校舎は修復の上、新しい大槌町役場の庁舎に転用されています。

旧大槌町役場です。地震発生後約40分後に襲来した津波により、役場にいた町長はじめ多くの職員も亡くなりました。震災遺構の保存・解体問題は、賛否両論あって簡単に決断できない正解のない問題だと言われています。大槌町の町の人々もその例にもれず、震災遺構としての保存か解体かで大きく揺れたそうです。平成30年3月15日の大槌町議会では可否同数(6対6)だった中で最終的に議長採決により解体が決まりました。解体工事は6月から始められましたが、アスベスト調査が行われていなかったことや工事業者にアスベストの除去の有資格者がいなかったことなどから中断が続いています。その間に、保存を訴える住民団体から解体工事の差し止めなどを求める住民訴訟があり、「保存か解体か」という問いへの解決は継続され、その前途は多難であることが想像されます。外部の人間である自分としては「津波さえなければ…」という思いがありますが、被害を受けた地域の方々はこの言葉を7年以上の時間に何度つぶやかれたことでしょう。

復興の着実な進捗も見ることができました。住民の希望である鉄道の運行再開です。
津波被害により、三陸の海岸沿いの鉄道は各地で橋梁や駅舎、線路が流され大きな被害を受けました。三陸鉄道北リアス線(久慈~宮古)・南リアス線(釜石~盛)は発災後から運転区間を伸ばしながら平成26年4月には全線で開通。しかし、北リアス線と南リアス線に挟まれる形のJR山田線(宮古~釜石)の復旧が遅れていました。大槌町もこの区間に当たります。紆余曲折を経て、JRが復旧を行い、その完成後に三陸鉄道に移管することになり、平成31年3月26日には「リアス線」(久慈~盛)として総延長163キロという日本最長の第三セクターの路線となる予定です。

写真は大槌駅を大槌川右岸付近から駅方向に向いて撮影したものです。わかりにくいですが右奥にホームが写っています。公募により決まった大槌駅の愛称は「鮭とひょうたん島の町」。ひとつ釜石よりにあたる鵜住居駅も工事が進んでいました。この駅に近接する「釜石鵜住居復興スタジアム」は2019ラグビーワールドカップの試合会場になります。「リアス線」の運行再開は住民にとっては明るいニュースであり、開業に向けて工事は順調に進んでいました。

さいごに
大船渡市から大槌町の海岸線では各所で防潮堤の建設が進められているのが見られました。防潮堤のすそ野の幅は70メートル以上もあり、その土地の確保が課題です。また、設定されている堤防高は東日本大震災時の津波の高さより低いこと、周囲の景観の問題、そして何より津波来襲時の視界(市街地から海が直接見えない)の問題などがあり住民が反対している地域もあります。工事を決めた地域でも住民の方々は苦しい選択を迫られたことは容易に想像できました。
大きな被害を受けた東日本大震災。それに伴い、多くの人々が悲しみを背負いながらも未来に向かって日々頑張っておられる姿に触れ、離れた地域で暮らす私にとってはそのエネルギーに元気をいただくとともに、今回の教訓をいかに後世に伝えていくかということを考えさせられました。東日本大震災の「ど根性ポプラ」「津波石」「数多くの震災遺構」などはもちろんのこと、過去の被害を伝える石碑、「津波てんでんこ」などの教訓を、時間を超えて襲来する震災の際にその時代を生きている人々に活かせるようにするのは今を生きる私たちのできる努めだと思います。
被害がなければどれほどの人が苦しまずに済んだことでしょう。しかし、日本という国に住んでいる限り、今後も地震や津波は必ず起こります! 私たちはその前提を忘れず、過去の教訓を広め、活かしながら日々の備えを怠らないようにしたいものです。
(防災士 岡本 泰典)

福島第一原発20キロ圏内ツアーに参加して

福島第一原発20キロ圏内ツアーに参加して

2017年7月に初めて福島を訪れ、原発の20キロ圏内をボランティアガイドさんに案内してもらいました。立ち入り禁止のため救助に行きたくても行けなかったことで苦しんでいる人たちがいること。解除になったものの1パーセントしか帰宅されていない浪江町の状況。閑散とした町を見ながら車で走りました。ついこの間までは通行止の向こうにあった場所です。
浪江町では殺処分になる牛を殺さず、飼い続けている希望の牧場の方の話を伺いました。なんの罪もない牛たちが汚染された草を食べているのは何とも言えない気持ちになります。
走っているとあちこちに除染の土の袋が積まれています。除染の土は黒い大きな袋に入れられ、仮置き場に置かれています。それを焼却し、出た煙をフィルタにかけ、放射能物質を取り除いているそうです。汚染された土地は広大で、気の遠くなる長い年月がかかります。とりわけ山の土壌に汚染が残っており、今もなお10mSv/h(ミリシーベルト/時間)もあるそうです。一年間に浴びる放射線量を日本政府は20mSvまでとしているようですが、他の国々では2mSvまでとしているところが多く、日本は10倍も高い基準になっています。
福島のお米、農産物、魚介類は全て検査をされているそうです。100ベクレル以上のものは市場に流通しないようになっています。お米は全袋検査されており、100ベクレル未満のお米にはラベルが出てきて、そのお米が何ベクレルであったかQRコードを読み取ると携帯で情報を読み取ることができます。
県の事業で、お米を持ち込むと持ち込んだ人にお金が支払われる仕組みになっており、その代金は東電が支払い、それはつまり電気代として、消費者が支払っています。
この2年位は100ベクレルを超えるお米は出ていないそうです。なぜなら、お米はカリウムが少なくなるとセシウムを取り込む性質があることから、カリウムを多めに含んだ肥料をやることによってセシウムを取り込まなくなるのだそうです。
現地へ行って初めて知り得たことがたくさんありました。福島には津波や地震の被害だけではない、目に見えない放射能という今も、そして未来に続く不安があります。
途中で案内されているグループにいくつかすれ違いました。自分達のような2人連れもあれば、若者のグループや大型バスで来られている団体もありました。
巷には誤った情報がネットなどで流れていて、何が本当なのかわからなくなることがあります。

実際に行ってみて、自分の目で見て、福島の方々の気持ちに少しでも寄り添い知ろうとすること、風化させないことの大切さを知りました。

(防災士 板谷 慶依子)

関西支部連絡協議会「京都大学宇治川オープンラボラトリー研修会」を開催

 7月2日(土)、京都大学宇治川オープンラボラトリーにおいて、NPO法人日本防災士会の関西支部連絡協議会主催研修会を開催しました。
 講師の京都大学の平石哲也教授は沿岸域土砂環境研究領域で水際の地盤安定性について研究されています。ラボラトリーは水と土に関する災害の防止・軽減を目的とした実験研究を行うため、多くの観測・実験装置群を擁する、世界有数の規模を誇る総合実験施設です。この度は教授のご厚意により、講義と実験施設の見学と体験をさせて頂きました。
 地震・津波・浸水のメカニズムと対策の講義を頂いた後、参加者が4グループに分かれて実験施設へ移動し、「津波再現装置」の実験見学、「降雨実験装置」で200mmの降雨体験をしました。「浸水ドア実験施設」では、20cm40cm50cm浸水時のドア開閉を体験、「流水階段」では地下街に流れ込む20cmの流水の中、階段を上る難しさを体験しました。35℃を越える猛暑の中、全国から来て頂いた参加防災士にも、貴重な体験となりました。
 日本防災士会関西支部連絡協議会は兵庫県から大阪府へ引き継がれ、本年度より奈良県が幹事県を受け持ちました。奈良県防災士会の活動はもちろん、関西支部連絡協議会でも、奈良らしい特色のある研修会を企画します。今回はおかげさまで大人気の企画となり、定員オーバーで参加頂けなかった方にはご迷惑をおかけしました。
<末田政一 防災士>
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防災講演会のお知らせ

「地震・津波・火災からの避難を考える」

日時: 11月20日(木) 15:00~17:30

場所: NHK大阪ホール

講師: 神戸大学都市安全研究センター教授 北後 明彦氏

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災害復興支援報告 〜気仙沼から〜

災害復興支援として気仙沼で支援活動を続ける伊藤東洋雄防災士(奈良県支部:王寺町)から便りが届きました。
以下、全文を掲載します。

被災地復興支援活動中間報告

〜気仙沼だより〜 

日本防災士会奈良県支部 伊藤東洋雄

気仙沼市におけるまちづくりの考え方

東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた宮城県気仙沼市の復興支援のため当地に来てはや1年が経過しました。本稿では、気仙沼市におけるまちづくりの考え方について報告します。
震災直後のがれき散乱の状況

震災直後のがれき散乱の状況

 

かさ上げされたマンホール

かさ上げされたマンホール

 

【地震・津波発生からまちづくり復興まで】

1 地震・津波発生(平成23年3月11日14時46分頃)

2 被災者(家屋倒壊など)は学校の体育館などの避難所(105カ所)へ避難

3 仮設住宅を建設し、避難所から仮設住宅へ移転(仮設住宅は学校職場などに建設)

4 恒久住宅を建設し、仮設住宅から移転(主として次の3つのパターンがある)
−1 安全な場所に自宅を購入し各自で移転

−2 災害公営住宅に移転(自力での住宅再建が困難な市民のた
めの公営住宅)

−3 防災集団移転事業(津波被害の恐れがない地区への集団移転)で造成された宅地を購入し各自が建築後移転

 

【まちづくりの考え方 災害危険区域の指定と土地利用計画】

《総合的な津波防災対策》

■明治三陸・昭和三陸地震津波などの数十年から百数十年に一度発生する津波(L1津波)に対しては、海岸堤防により、確実に津波から街を防御する。

■1000年に一度といわれる今回のような津波(L2津波)が起こった場合浸水が想定

される地域には、居住しない。

今後の防災への取り組み

《災害危険区域の指定》

L1対応の防潮堤整備等を実施しても、東日本大震災と同様の津波で浸水被害が発生する可能性が高い区域を基本として指定している。

災害危険区域に指定(平成23年7月)された地区は居住の用には使えなく、水産加工施設など商業・工業などの非居住区域となる。

【復興の現状】

1 災害公営住宅 19地区、1,998戸のうち完了0戸

2 防災集団移転地38地区・970区画のうち、今年3月に初めて6区画が完成した。

3 防潮堤 87カ所のうち完了0カ所

4 震災廃棄物(瓦礫)処理 完了
下水道汚水枡の被害調査

 

【復興への課題】

5 これまで経験したことがない大規模災害に直面して、復興への強いリーダーシップが求められる。

6   復興計画に対する住民の合意がまとまりにくい。(防潮堤の高さの決定など)

7 復興事業に時間がかかる。

・防災集団移転事業などの実施に際し、相続手続きや抵当権解除など地権者の同意が必要。

・埋蔵文化財調査や開発行為の手続きなど法律に縛られる。

8 広範囲にかつ時期を同じくして復興に取り組むため、行政の職員、建設会社、建設資材が

逼迫し、事業がはかどらない。

9 復興事業に時間がかかるため、それぞれの事情を抱えた住民には待ちきれなく、他の自治体に転居し、人口が減少し復興計画の見直しが必要になる場合がある。

3.5mかさ上げされる

3.5mかさ上げされる

 

建物は流され基礎のみが残っている

建物は流され基礎のみが残っている
かさ上げされたマンホールと下水の仮設配管

かさ上げされたマンホールと下水の仮設配管