台風19号被災地の状況(10月15日15時現在)

台風19号の被害状況の報告です。
テレビや新聞でも報道されていますが、その被害は甚大です。
北は、岩手県から西は長野県まで12都県で死者74名、行方不明12名(毎日新聞報道)とのことで、国交省の発表では、7県52河川73ヶ所で堤防決壊が確認された(10月15日、15時現在)とのことです。
未だ被害の全容が掴めてない自治体も多く、その全容は明らかになっていません。

また、本部からの情報によりますと、信濃川下流域の新潟県長岡市でも甚大な被害が発生しているとの情報も入っております。
奈良県防災士会として、なにができるのかについて、義援金や災害ボランティアの派遣及び被災都県支部への支援も含めて、本部と協議しながら現在調整中です。

すでに各地域では災害ボランティアセンターが開設されたり、その準備に入っているようです。
最近のボラセン設置状況は、全国社会福祉協議会HP参照
全社協HPボランティア情報

本部事務局の台風15号視察報告

日本防災士会のHPに台風15号の被災地視察状況の報告がUPされています。190915chiba2

千葉県内の「災害ボランティアセンター」の設置状況について

川口均防災士(生駒市)から千葉県内自治体の災害ボランティアセンター設置状況一覧表が届きました。

なお、現状では県外からのボランティア受入れはしてないようです。

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平成30年度 北葛城郡社会福祉協議会 研修(災害対応訓練)

 

3月3日(日)に、上牧町2000年会館で、「平成30年度 北葛城郡社会福祉協議会 研修(災害対応訓練)」が行われました。参加者は、上牧町内のボランティアグループ(7団体21名)、小地域ネットワーク(10団体23名)、自治会・自主防災(8団体16名)、民生児童委員(25名)、県下社会福祉協議会(20団体51名)、行政(2名)県防災士会(5名)、上牧町社会福祉協議会(19名)で、「災害ボランティアセンター運営訓練」が行われました。

大阪府阪南市社会福祉協議会の猪俣健一さんの「災害ボランティアセンターとは」の講演の後、「3月1日午前11時和歌山県沖を震源とするM8クラスの地震発生。上牧町では、震度6弱を観測し、町内の一部で住宅倒壊などの被害が発生している。」との想定で、災害ボランティアセンタースタッフ、住民、ボランティアの各役に分かれて訓練を行いました。

蓬莱島

岩手県大槌町を訪問して

岩手県大槌町を訪問して
昨年11月上旬、仕事の関係で岩手県大槌町を訪れる機会がありました(当日は残念ながら雨模様でした)。本務は「小中一貫教育全国サミットin大槌」への参加です。出張先は大槌町でしたが、大船渡市に宿舎があった関係で大船渡~大槌の往復と、大槌町で見聞きした東日本大震災からの復興状況に関する内容について報告します。
この区間はご存じのとおりリアス式海岸の地形であり、大小多くの湾や入り江では沖から押し寄せる津波の波高がせり上がって被害が大きくなる傾向があります。車から見える景色でも比較的標高が低い場所の多くは更地であるか新しい建造物であるため、現在でも津波の被害があったエリアは一目瞭然でした。

写真は大船渡市浦浜地区の「ど根性ポプラ」です。説明板には『この広場になった土地は、平成23年3月11日の東日本大地震津波以前は、旅館、商店、資材倉庫等があった場所でした。中心に立つポプラの木は、商店の敷地内に、昭和8年の三陸大津波以降に植えられたもので、現在樹齢約80年です。未曽有の東日本大震災津波で木の高さ(約25m)の半分が海水に浸かり、十数回に及ぶ甚大な破壊力の押し波、引き波に耐え、周囲が悲惨なまでに変わりはてた中で、悠然と立っている一本のポプラの姿は、茫然自失となっていた住民の心を慰め、奮い立つ勇気を与えてくれました。誰からともなく「ど根性ポプラ」と呼ばれるようになりました。地域では、このポプラの木を中心とした憩いと人の交流広場建設構想で話がまとまり、市はこの提言を受け、地域が管理する多目的広場「ど根性ポプラ広場」として整備しました。(以下略)』との説明がありました。
たった1本のポプラにどれだけ多くの人が励まされたことかと思うと胸がつまります。ポプラの背後に見える防潮堤(高さT.P.+11.5m)は平成29年9月に完成したものです。 ※T.P.(東京湾中等潮位):東京湾の平均海面を基準とした水位の高さ

この写真は大船渡市三陸町吉浜の「津波石」です。吉浜は過去の津波被害の経験から高台移転が進み、他地域とは比べようがないほど少ない被害であったため「奇跡の集落」として、世界中に報道された村です。古くから高級食材「吉浜(きっぴん)アワビ」の産地で知られていますが、アワビは岩に張り付いているため津波の影響は少なく、地震が起こった年の11月からの漁期にも収穫されたそうです。ただ、収穫のための漁船が津波で減少し、その年の例年に比べ収穫量は大幅に減ったようですが…。
「津波石」は、昭和8年の昭和三陸大津波で大船渡市三陸町吉浜に流れ着いた巨石。岩石の表面には昭和三陸津波の際に刻まれた『津波記念石』の文字と展示に当たっての概要が記されており、その内容は、大きさ縦3.7メートル、横3.1メートル、高さ2.1メートル、重さは約30トンの大きな岩石。昭和和三陸大津波の際にはこの巨石が前方にある吉浜川河口付近から200mも運ばれたとのこと。漁港の整備に伴い一度は埋められてしまいましたが、平成23年に起きた東日本大震災による津波で被災した市道の法面から再び地上に姿を現したものを海岸に展示しているものです。過去、幾たびも津波被害を受けている三陸地域ならではの展示物でした。再発見に関わられた方の手記がHPで見ることができます。
〔参考〕思い出の「津波石」―二度も繰り返した偶然―
http://tsunami-ishi.jp/ofunato-yoshihama/report04.html

ここからは目的地の大槌町についてです。

大槌湾に浮かぶ「蓬莱島」はひょっこりひょうたん島のモデルとも言われており、震災後もそのかわいらしい姿を海面にのぞかせていました。

初めに訪れた大槌町立吉里吉里中学校は大槌町役場がある地域から北東方向に約4km離れた、船越湾に面する地域です。見学した授業は、地域の主な産業の一つである三陸ワカメの中で吉里吉里ワカメがどのような役割を果たしているかについての学習でした。地域のワカメ養殖に携わる方を講師に招き熱心に学んでいる姿が印象的でした。
発災当日の中学校には校舎敷地の一つ下にある運動場まで津波が来たそうですが、不幸中の幸いで校舎は被害を免れました。訪問時には校舎の横の土地に数多くの仮設住宅が並んでいました(写真の左右の建物の間に見える平屋の建物)が、復興が進む中、この仮説住宅は現在入居者が0になり、近いうちに撤収されるとのこと。中学校で学ぶ子どもたちの心の負担はほんの少し軽くなるかもしれません。近くの船越湾では巨大な防潮堤(堤防高T.P.12.8m 堤防護岸延長1200m)の建設が急ピッチで進められていました。

大槌町の市街地に当たる上町、本町、新町、安渡などの地区は津波により大きな被害がありました。写真はこの地域で建設中の防潮堤で堤防高T.P. 14.5m。堤防護岸延長は吉里吉里地区より長い2631mの計画です。
学校関係では、大槌小学校、安渡小学校、赤浜小学校、大槌北小学校、大槌中学校が津波により全てが使用できない状態となり、学校再開に向けて上記5校が入居する仮設校舎が、「大槌ふれあい運動公園」サッカー場に建設され、発災の約半年後、9月20日に小学校4校が、9月22日に大槌中学校が同一敷地内で開校したそうです。その後、平成25年4月には安渡、赤浜、大槌北の各小学校と合併して新しい大槌小学校が設立され、旧・大槌小学校は閉校扱いとなりました。平成28年4月には義務教育学校の大槌町立大槌学園(施設一体型小中一貫校)となり、平成29年1月には現在の新校舎が完成して今に至っています。なお、火災にあった旧大槌小学校の鉄筋4階建て校舎は修復の上、新しい大槌町役場の庁舎に転用されています。

旧大槌町役場です。地震発生後約40分後に襲来した津波により、役場にいた町長はじめ多くの職員も亡くなりました。震災遺構の保存・解体問題は、賛否両論あって簡単に決断できない正解のない問題だと言われています。大槌町の町の人々もその例にもれず、震災遺構としての保存か解体かで大きく揺れたそうです。平成30年3月15日の大槌町議会では可否同数(6対6)だった中で最終的に議長採決により解体が決まりました。解体工事は6月から始められましたが、アスベスト調査が行われていなかったことや工事業者にアスベストの除去の有資格者がいなかったことなどから中断が続いています。その間に、保存を訴える住民団体から解体工事の差し止めなどを求める住民訴訟があり、「保存か解体か」という問いへの解決は継続され、その前途は多難であることが想像されます。外部の人間である自分としては「津波さえなければ…」という思いがありますが、被害を受けた地域の方々はこの言葉を7年以上の時間に何度つぶやかれたことでしょう。

復興の着実な進捗も見ることができました。住民の希望である鉄道の運行再開です。
津波被害により、三陸の海岸沿いの鉄道は各地で橋梁や駅舎、線路が流され大きな被害を受けました。三陸鉄道北リアス線(久慈~宮古)・南リアス線(釜石~盛)は発災後から運転区間を伸ばしながら平成26年4月には全線で開通。しかし、北リアス線と南リアス線に挟まれる形のJR山田線(宮古~釜石)の復旧が遅れていました。大槌町もこの区間に当たります。紆余曲折を経て、JRが復旧を行い、その完成後に三陸鉄道に移管することになり、平成31年3月26日には「リアス線」(久慈~盛)として総延長163キロという日本最長の第三セクターの路線となる予定です。

写真は大槌駅を大槌川右岸付近から駅方向に向いて撮影したものです。わかりにくいですが右奥にホームが写っています。公募により決まった大槌駅の愛称は「鮭とひょうたん島の町」。ひとつ釜石よりにあたる鵜住居駅も工事が進んでいました。この駅に近接する「釜石鵜住居復興スタジアム」は2019ラグビーワールドカップの試合会場になります。「リアス線」の運行再開は住民にとっては明るいニュースであり、開業に向けて工事は順調に進んでいました。

さいごに
大船渡市から大槌町の海岸線では各所で防潮堤の建設が進められているのが見られました。防潮堤のすそ野の幅は70メートル以上もあり、その土地の確保が課題です。また、設定されている堤防高は東日本大震災時の津波の高さより低いこと、周囲の景観の問題、そして何より津波来襲時の視界(市街地から海が直接見えない)の問題などがあり住民が反対している地域もあります。工事を決めた地域でも住民の方々は苦しい選択を迫られたことは容易に想像できました。
大きな被害を受けた東日本大震災。それに伴い、多くの人々が悲しみを背負いながらも未来に向かって日々頑張っておられる姿に触れ、離れた地域で暮らす私にとってはそのエネルギーに元気をいただくとともに、今回の教訓をいかに後世に伝えていくかということを考えさせられました。東日本大震災の「ど根性ポプラ」「津波石」「数多くの震災遺構」などはもちろんのこと、過去の被害を伝える石碑、「津波てんでんこ」などの教訓を、時間を超えて襲来する震災の際にその時代を生きている人々に活かせるようにするのは今を生きる私たちのできる努めだと思います。
被害がなければどれほどの人が苦しまずに済んだことでしょう。しかし、日本という国に住んでいる限り、今後も地震や津波は必ず起こります! 私たちはその前提を忘れず、過去の教訓を広め、活かしながら日々の備えを怠らないようにしたいものです。
(防災士 岡本 泰典)

西日本豪雨災害支援ボランティアに参加して<9月15、16日真備町支援>

被災地に到着してバスを降車すると同時に感じた臭気。町全体を漂っているようである。
河川氾濫によって町を埋め尽くした土砂はほぼ撤去されていたが、この”におい”は洪水によってもたらされたものなのか、その後の消毒散布によるものなのか。
災害ボランティア初陣の私にとって、想像していなかったことがいきなり現れた。
ボランティアミニサテライトでは支援を求めている方とボランティアとを繋ぐコーディネートがなされ、我々奈良県防災士会は3班に分かれ被災家屋へ散っていく。
私はチームのタイムキーパー係。つまり、ボランティアの体調維持に欠かせない休憩をを指示する役目。
現場に到着するとチームリーダーより、壁落とし、高圧洗浄機による洗浄、床下の泥出しの分担を指示され作業を着手。借り受けたバールやほうき、洗浄機を手に黙々と作業を進める。床はすでに剥がされており、合板を並べて足場を確保。移動も慎重、梯子や脚立も安定を十分確認しないと転倒して怪我をする可能性もある。
途中、家主さんが訪れてこられ、欄間の土壁はがしという要望に応えることに。高い位置なので身軽そうな私とほか一名で担当する。
休憩は他の団体にも声を掛けて合同で取るように努め、スナックや飴を分け合ってちょっとした交流を図る。聞くと参天製薬の労働組合員で西日本各地から集まったとのこと。中には奈良県生駒市の学研奈良地域にお勤めの方もおられ、お互いびっくり。
家主さんとも会話したところ、亡くなられた方、助かった方の話を聴くことに。
その中にはテレビなどの報道で避難情報が発令されているにも関わらず、逃げようとしない方、家族からの電話での説得にようやく応じて避難する方の話があった。
避難しなければならない危険が迫っているような状況に対し、自分には災害が襲ってこないだろうと根拠もなく大丈夫と思ってしまうこと。これを「正常性バイアス」という。
他にも、近隣の方が避難行動を行っていないので自分も行動しないこと。これを「多数派同調バイアス」という。避難を呼び掛けられているのは実は自分自身である、と認識していただくには、テレビのアナウンスでは不足なのであろう。家族や知り合い、近隣の方々の助けが必要になる。普段からの地域の絆、コミュニティー力が人命を救う。
今回のボランティア活動は家屋、家財といった財産被害に対する支援活動であったが、つい二ヶ月前にこの地域で多くの人命が失われた事実を胸に活動された防災士はいただろうか。財産は再建可能だが、残された住民の被災された心の再建も望まずにはいられない。(八幡領防災士)

9月15、16日真備町支援活動

真備町ボランティアセンター

真備町ボランティアセンター

ミニサテライト着

ミニサテライト

ミニサテライト(新田)

作業現場

作業前

作業前

作業後

作業後

作業現場

被害状況8月

被害状況8月

被害状況8月

9月無人状態

9月無人状態

倉敷市真備町災害ボランティア報告

8月18日、19日岡山県倉敷市真備町での災害ボランティアの状況を報告します。報告者「川口均 防災士」mabi20180823

三宅町ボランティアバス参加報告(8/9:倉敷市真備)

平成30年8月9日(木)、三宅町が派遣したボランティアバスで倉敷市真備地区へ入りました。このボラバス派遣は町としては初めての試みで、各地区自主防災会、町社協、町職員の計10名で町の公用車2台(ワンボックス)に分乗して現地へ向かいました。
早朝6時過ぎに役場を出発。10時過ぎに真備ボランティアセンターに到着。到着後、ボラセンでの受付を済ませ、ボラセンの送迎バスにて真備(サテライトやた)へ移動。ここで活動する被災家屋の指示を受けて一輪車やスコップ等の道具を持って徒歩にて約20分かけて移動。
現場で、被災者の方から依頼内容を確認後活動開始。当日は、これまでの猛暑ではなく曇り空ということもあり、30分活動10分休憩で始めましたが、やはり暑さのせいで途中から20分活動10分休憩へ変更しながらの活動となりました。
被災者の方の話では、「いつかはこんな事が起こるのではないか?」と心配していたとのこと。聞けば、この地域では、元々、小田川の右岸側が遊水地?的な役割を果たしていたそうですが、右岸側の住民から「なぜ、いつも私たちの所ばかり・・」との声を受け、国が右岸の堤防を工事したいきさつがあるようです。ただ、「私も心配はしていたが、ここまで・・・」とは思ってなかったとのお話でした。また、隣の家は、いきなり濁流に飲み込まれて家ごと流されてしまい、亡くなられたとのお話もお聞きしました。
予定していた活動は、一部、母屋の二階の片付けが少し残りましたが、ほぼ完了。活動終了後、徒歩にてサテライトへ引き上げましたが、この徒歩20分が結構きつい。
当日は、様々な人たちと一緒に活動できたことが良かったです。“防災士”のTシャツを着ていたこともあり、「防災士ってなんですか?」と聞かれたり、中学1年生の男の子やそのお姉さんの大学生の方と仲良くなったり、「植村さん奈良から来られたんですか?」ここでは「奈良さんと呼びますよ!」など、初めて会った人たちと色んな話ができたこと等、人と人のつながりは大事と実感しました。
個人的ではありますが、今回のボランティア活動は、町が企画し、しかも岡橋総務部長自ら先頭でボランティア活動されたことに敬意を表します。
わが町、「三宅町も、やるな!」というところですかね。

(奈良県防災士会:植村信吉)

奈良市のボランティアバス参加報告

日時: 2018年7月26日(木)6:00 ~ 19:00 (日帰り)
主催: 奈良市 市民活動部 協働推進課
参加: 市内在住・在勤の20数名(市・市社協の担当者2名含む)
場所: 岡山県倉敷市真備町(真備地区人口22,760人 ※平成30年3月末時点)
天候: 晴れ、気温31‐34度程度

西日本を襲った豪雨により、倉敷市を流れる小田川およびその支流の堤防で少なくとも3か所が決壊、広範囲に渡って浸水する災害が発生。
直近の調査によると深い所で5m30㎝を超える深さで水に浸かった真備町を訪れ災害支援活動を行いました。

7月26日早朝、奈良市長をはじめ大勢の奈良市職員に見送られ、ボランティアバスが奈良市役所を出発。
現地真備町のボランティアセンターで受付後、作業場所近くのサテライトに到着したのは、午前10時頃。
急遽4つの班を編成、わたしは1班(6名)のメンバーとなりました。(以下、1班の作業記録となります)

サテライトから徒歩6分程のところにある2階建住宅が今回の作業場所。
壁に付いた痕跡を見るに、2階で人が立った状態で、その膝位にまでは水が浸かったようでした。
住宅内は、家具・家電・畳・床板など殆ど全てのものが運び出された後でガランドウの状態。

依頼作業は、敷地内の住宅周辺に堆積した土砂を土嚢袋に入れ、敷地の端(道路に接した所)に積み上げていくという単調なもの。
但し、連日の酷暑の中、殆どが日の当たる場所での作業、ボラセンから指示があった『20分作業毎に10分休憩』を挟んでもかなりシンドイものでした。
少しでも無理すると熱中症になりそうな自分がいました。
他のメンバーも同様だったと思います。
幸い、ボラセンからの指示事項が適切だったこと、および氷の支給などもあり、奈良市ボランティアメンバーにて熱中症になった者は一人もでませんでした。

作業自体は、午後1時半前には終え、依頼者である住民の方に報告。
遠くから来てくれたこと、作業が大変捗ったことに対して、非常に喜ばれ、お礼の言葉を頂きました。

その後、サテライトに戻り、バスを止めている駐車場で着替えを済ませ、午後2時には現地を離れ帰途につきました。

<所感>
災害後、日も浅いことから、自衛隊の支援活動もまだ行われていたし、町中至る所で水に浸かった大量の家具や家電が廃棄物として積み上げられている状態でした。
今回作業を行った住宅およびその周辺を見ても殆どの一階部分は全滅という感じで災害規模の大きさを改めて実感しました。
1日といっても実際の作業時間は3時間弱程度。
特に、この酷暑の中ではできる作業量は知れています。
今後も沢山のボランティアが必要な状態は続くものと予想されますので、機会があればまた参加したいと思います。
<橿原市 漆戸章夫 防災士>

サテライト

作業の様子

自衛隊の災害支援車両

真備町現地の様子